永井均『ウィトゲンシュタイン入門』2章の備忘録その1

永井均ウィトゲンシュタイン入門』には第2章に前期ウィトゲンシュタイン哲学のことが書かれています.第2章は4つのセクションから成っています.この記事では1つめのセクション「『論理哲学論考』の本質」の気になった部分についてのメモを連ねます.

哲学に入門するにあたって,人の書いた文章を自分で噛み砕けるようになりたいので,この記事を書くのはその練習のためです.おかしなことが書いてあっても責任はとれません(何かあれば指摘していただけるとありがたいです).

 

†限界設定の書

論理哲学論考』の序文には以下のような記述がある。

 この本は哲学的な諸問題を論じており、それら諸問題の設定がわれわれの言語の論理の誤解に基づくことを――私の信ずるところでは――示している。この本の全意義は以下のように要約されよう。すなわち、およそ語りうることについては明晰に語りうる、そして、論じえぬものについては沈黙しなければならない、と。

 この本は、それゆえ、思考に限界を引こうとする。いやむしろ、思考にではなく、思考されたものの表現に限界を引こうとする。というのは、思考に限界を引くためには、この限界の両側を思考できなければならない(それゆえ思考できないことをも思考できなければならない)ことになるからである。

 つまり、限界は言語の内部でだけ引くことができ、限界の向こう側は端的に無意味であろう。

(『論考』序文より)

 思考に限界を引くということは、思考しているもの全体を、思考できるもの全体と思考できないもの全体とに分けることである。しかし、すでに思考していることがらであってかつ思考できないことがらが存在すれば矛盾が生じる。だから思考に限界は引けない。

代わりに、思考されたものの表現に限界を引こうとする。限界の外側は「無意味」とされた。

 

†言語の可能性の条件

さて、『論考』が限界設定の書であるといわれるとき、しばしば対比されるのはカントの『純粋理性批判』である。『純粋理性批判』もまた限界設定の書であった。それは、経験の可能性の条件を明らかにすることによって、われわれに可能な経験の範囲を限定しようとした。つまり、ものごとがわれわれにどう現れうるかを知ることによって、われわれに現れうる物事の範囲を限定しようとしたのである。そのためには、可能な経験の一般的な形式を、あらかじめ、しかも経験の内側から既定しなければならない。……カントの直面した問題が、ウィトゲンシュタインの問題と同型であったことは、明らかであろう。

永井均ウィトゲンシュタイン入門』49頁)

カントは経験の可能性を、ウィトゲンシュタインは言語の可能性を明らかにしようとした。

可能な経験すべての集まりは、今まで経験したことだけではなく、今まで経験したことがないが未来に経験することや、一生経験することは無いが経験し得ることを含んでいなければならない(一生経験することが無いのなら、それは「自分にとっては」可能でない経験としてもよいのだろうか。わからない)。

可能な経験の一般的な形式を、経験の内側から既定しなければならない。

可能な言語の一般的な形式を、言語の内側から既定しなければならない。

彼らの問題を対比するとすれば、こうなるのだろう(経験はともかく「言語が可能である」とはどういうことなんだろう…。世界について何ごとかを語りうることだろうか?)。

 

†超越論的(先験的)哲学

「トランスツェンデンタール(独・transzendental)」という語には「超越論的」と「先験的」という2つの訳語がある。『論考』のねらいは先験的と言った方が妥当である。「先験的」とは経験に先行して、経験によらず解明するという意味を持つ。

私は、例えば「人を殺してもよいか?」という問題を、人を殺した経験のない人たちが「他人の未来を不可逆的に消す権利はない」「法を犯してまでも殺したいのであれば止めることはできない」などと議論することも、先験的なことかなと思った(ちがいますかね…)。

外的(経験的)関係・内的関係という概念が現れる。

外的(経験的)関係とはなにか。たとえば「阿蘇山が噴火したこと」と「山の麓に火山灰が降ったこと」とは、独立の出来事として捉えることができる。たまたまそこに因果関係があったに過ぎない。

しかし、それ以前に、言語が世界について何ごとかを語りうることを前提にしなければならない。東名高速道路が渋滞しているという事実と、「東名高速道路が渋滞している」という文とのあいだには、外的関係は成り立たない。それらは、独立の出来事でありかつ、経験や観測によって何らかの因果関係が見いだされたもの、ではない。東名高速道路が渋滞しているという事実は「東名高速道路が渋滞している」という文によって初めて理解されるし、「東名高速道路が渋滞している」という文は東名高速道路が渋滞しているという事態の表現としてしか理解されない。このような関係を、内的関係という。

 

内的関係がどのようにして成り立っているのかは,次セクション以降に説明がなされています.また気力がわいたら纏めてみます.