locally compact Hausdorff空間がBaire空間であることの証明

定義位相空間Xがベール空間であるとは,加算個の開集合族 {  \{ O_n : 1 \leq n \} } で各nに対して { \overline{ O_n } = X } なるものが任意に与えられたとき, { \overline{ \cap \{ O_n : 1 \leq n \} } = X } なるものをいう.

ベール空間は第二類集合です.

補題位相空間Xに対して次の2条件は同値である.

1.Xはコンパクトである.

2.Xの部分集合のなす族が有限交叉性(つまり有限個の集合の共通部分が空でないこと)をみたせば,その族の元となる集合の閉包すべての共通部分は空でない.

証明:1.を仮定する.仮に有限交叉性をもつXの部分集合族 {  \{ F_n : 1 \leq n \} }  { \cap \{ \overline{F_n} : 1 \leq n \} = \phi } なるものがとれたとする. { \cup \{ \overline{F_n}^{C} : 1 \leq n \} = X } となりXがコンパクトであるゆえ { \cup \{ \overline{F_n}^{C} : 1 \leq n \leq N \} = X } なる自然数Nがとれるが,これは {  \{ F_n : 1 \leq n \} } の有限交叉性に反する.よって2.が成り立つ.

2.ならば1.の証明は省略.(終)

補題:局所コンパクトハウスドルフ空間Xは完全正則空間(特に,正則空間)である.

証明の方針だけ述べる.点xとその開近傍Uを任意にとる.仮定より,xの開近傍Vで { K := \overline{V} } がコンパクトなるものがとれる. { W=U \cap V } と置く.コンパクトハウスドルフ空間は正規空間であったから,ウリゾーンの定理より,連続写像 { \displaystyle f:K \to \lbrack 0,1 \rbrack }  { f(x)=1, \ f(K \cap W^{C} )={0} } なるものがとれる.ここで写像 { \displaystyle g:X \to \lbrack 0,1 \rbrack } を,K上ではfと一致し,X-Kでは零の値をとるものと定義すると,これは連続写像であり, { \displaystyle g(x)=1,g(U^{C})={0} } をみたす.よってXは完全正則空間である.(終)

定理:局所コンパクト空間はベール空間である.

証明:加算個の開集合族 {  \{ O_n : 1 \leq n \} } で各nに対して { \overline{ O_n } = X } なるものが与えられたとする.任意に空でない開集合Bをとる. { B \cap O_1 \neq \phi } であるので,空間Xの局所コンパクト性と正則性を使えば,

{ \displaystyle \phi \neq B_1 \subset \overline{B_1} \subset B \cap O_1,\overline{B_1}: }コンパクト

なる開集合 {B_1} がとれる.以後も同じようにして,

 { \phi \neq B_{n+1} \subset \overline{B_{n+1}} \subset B_n \cap O_n , 1 \leq n }

と開集合をとっていく.Xのコンパクト部分空間{ \displaystyle \overline{B_1} }の部分集合族{ \displaystyle \{B_n : 1 \leq n \} }は有限交叉性をもつので,

{ \displaystyle \phi \neq \cap \{ \overline{B_n} : 1 \leq n \} \subset B \cap \bigcap \{ O_n : 1 \leq n \} }

となり, { \overline{ \cap \{ O_n : 1 \leq n \} } = X  } となる.よってXはベール空間である.(証終)

永井均『ウィトゲンシュタイン入門』2章の備忘録その1

永井均ウィトゲンシュタイン入門』には第2章に前期ウィトゲンシュタイン哲学のことが書かれています.第2章は4つのセクションから成っています.この記事では1つめのセクション「『論理哲学論考』の本質」の気になった部分についてのメモを連ねます.

哲学に入門するにあたって,人の書いた文章を自分で噛み砕けるようになりたいので,この記事を書くのはその練習のためです.おかしなことが書いてあっても責任はとれません(何かあれば指摘していただけるとありがたいです).

 

†限界設定の書

論理哲学論考』の序文には以下のような記述がある。

 この本は哲学的な諸問題を論じており、それら諸問題の設定がわれわれの言語の論理の誤解に基づくことを――私の信ずるところでは――示している。この本の全意義は以下のように要約されよう。すなわち、およそ語りうることについては明晰に語りうる、そして、論じえぬものについては沈黙しなければならない、と。

 この本は、それゆえ、思考に限界を引こうとする。いやむしろ、思考にではなく、思考されたものの表現に限界を引こうとする。というのは、思考に限界を引くためには、この限界の両側を思考できなければならない(それゆえ思考できないことをも思考できなければならない)ことになるからである。

 つまり、限界は言語の内部でだけ引くことができ、限界の向こう側は端的に無意味であろう。

(『論考』序文より)

 思考に限界を引くということは、思考しているもの全体を、思考できるもの全体と思考できないもの全体とに分けることである。しかし、すでに思考していることがらであってかつ思考できないことがらが存在すれば矛盾が生じる。だから思考に限界は引けない。

代わりに、思考されたものの表現に限界を引こうとする。限界の外側は「無意味」とされた。

 

†言語の可能性の条件

さて、『論考』が限界設定の書であるといわれるとき、しばしば対比されるのはカントの『純粋理性批判』である。『純粋理性批判』もまた限界設定の書であった。それは、経験の可能性の条件を明らかにすることによって、われわれに可能な経験の範囲を限定しようとした。つまり、ものごとがわれわれにどう現れうるかを知ることによって、われわれに現れうる物事の範囲を限定しようとしたのである。そのためには、可能な経験の一般的な形式を、あらかじめ、しかも経験の内側から既定しなければならない。……カントの直面した問題が、ウィトゲンシュタインの問題と同型であったことは、明らかであろう。

永井均ウィトゲンシュタイン入門』49頁)

カントは経験の可能性を、ウィトゲンシュタインは言語の可能性を明らかにしようとした。

可能な経験すべての集まりは、今まで経験したことだけではなく、今まで経験したことがないが未来に経験することや、一生経験することは無いが経験し得ることを含んでいなければならない(一生経験することが無いのなら、それは「自分にとっては」可能でない経験としてもよいのだろうか。わからない)。

可能な経験の一般的な形式を、経験の内側から既定しなければならない。

可能な言語の一般的な形式を、言語の内側から既定しなければならない。

彼らの問題を対比するとすれば、こうなるのだろう(経験はともかく「言語が可能である」とはどういうことなんだろう…。世界について何ごとかを語りうることだろうか?)。

 

†超越論的(先験的)哲学

「トランスツェンデンタール(独・transzendental)」という語には「超越論的」と「先験的」という2つの訳語がある。『論考』のねらいは先験的と言った方が妥当である。「先験的」とは経験に先行して、経験によらず解明するという意味を持つ。

私は、例えば「人を殺してもよいか?」という問題を、人を殺した経験のない人たちが「他人の未来を不可逆的に消す権利はない」「法を犯してまでも殺したいのであれば止めることはできない」などと議論することも、先験的なことかなと思った(ちがいますかね…)。

外的(経験的)関係・内的関係という概念が現れる。

外的(経験的)関係とはなにか。たとえば「阿蘇山が噴火したこと」と「山の麓に火山灰が降ったこと」とは、独立の出来事として捉えることができる。たまたまそこに因果関係があったに過ぎない。

しかし、それ以前に、言語が世界について何ごとかを語りうることを前提にしなければならない。東名高速道路が渋滞しているという事実と、「東名高速道路が渋滞している」という文とのあいだには、外的関係は成り立たない。それらは、独立の出来事でありかつ、経験や観測によって何らかの因果関係が見いだされたもの、ではない。東名高速道路が渋滞しているという事実は「東名高速道路が渋滞している」という文によって初めて理解されるし、「東名高速道路が渋滞している」という文は東名高速道路が渋滞しているという事態の表現としてしか理解されない。このような関係を、内的関係という。

 

内的関係がどのようにして成り立っているのかは,次セクション以降に説明がなされています.また気力がわいたら纏めてみます.

任意の位相群は完全正則空間であることの証明

今日は任意の位相群が完全正則(completely regular)空間であることを証明します.

定義位相空間Xが完全正則であるとは,閉集合Fとそれに元として含まれない{ \displaystyle x \in X}が任意に与えられたときに,連続写像{ \displaystyle f:X \to \lbrack 0,1 \rbrack }が存在して,

{ \displaystyle f(x) = 0,f(F) = \{ 1 \} }

なることをいう.

ちなみに完全正則だからといって正規とは限らなくて,そういう空間の一つにMoore planeというのがあるそうです(初めて知った顔).

定理位相群Gは完全正則である.

証明:閉集合{ \displaystyle F(e \notin F) }が任意に与えられたとする.

単位元eの近傍の列{ \displaystyle \{V_n : 1 \leq n \} }を,

{ \displaystyle V_1 \subset F^{C},V_{n+1}V_{n+1} \subset V_n }

なるように取る.

{ \displaystyle Q := \{ r = a_1/2 + ... + a_k/2^k : 1 \leq k,a_i = 0,1 \} }

と置けば,Qは区間(0,1)で稠密である.

ここで各{ \displaystyle r = a_1/2 + ... + a_k/2^k \in Q }に対して

{ \displaystyle U_r := V_1^{a_1}V_2^{a_2}...V_k^{a_k},( V_i^{0}:={e},V_i^{1}:=
V_i ) }

と置く.{ \displaystyle s,t \in Q,s < t }が,

{ \displaystyle s = a_1/2 + ... + a_k/2^k }

{ \displaystyle t = b_1/2 + ... + b_l/2^l }

と表されたとする.ちょっと考えると{ \displaystyle U_s V_k \subset U_t }となる.ここで前回の記事 T0な位相群はHausdorff空間であることの証明 - Lullaby Of Meowlandにある補題より, { \displaystyle \overline{U_s} \subset U_s V_k \subset U_t }となる(☆).

写像{ \displaystyle f:X \to \lbrack 0,1 \rbrack }を,

{ \displaystyle f(x) = inf \{ r \in Q : x \in U_r \} \ ( \exists r \in Q,x \in U_r ),f(x)=1 (else \ if) }

と定義する.

{ \displaystyle x \in G,0 < f(x) < 1 }であれば充分に小さい任意のε>0に対して,

{ \displaystyle 0 < f(x)- \epsilon < r_1 < f(x) < r_2 < f(x)+ \epsilon < 1 }

となる{ \displaystyle r_1,r_2 \in Q}が存在する.

ここで,☆とQの(0,1)における稠密性とを使うと,{\displaystyle x \in U_{r_1} \cap \overline{ U_{r_2} }^{C} }が分かる.

{\displaystyle f( U_{r_1} \cap \overline{ U_{r_2} }^{C} ) \subset f(U_{r_1}) \cap f(\overline{ U_{r_2} }^{C}) \subset \lbrack 0,r_1 \rbrack \cap \lbrack r_2,1 \rbrack \subset ( f(x) - \epsilon , f(x)+ \epsilon ) }

となり,xにおいてfが連続であるとわかった.f(x)=0なるxやf(x)=1なるxにおいてもfが連続であることは,似たような議論で示せる.

よってfは諸々の条件をみたすことがわかった.任意の{ \displaystyle x \in G }に対して{ \displaystyle G \to G;a \mapsto x^{-1} a }同相写像であった.よって位相群Gは完全正則である.(証明終)

間違っていたら教えて下さい.

T0な位相群はHausdorff空間であることの証明

位相群というのは群構造の入った位相空間で、演算

{ \displaystyle
G \times G \to G ; (x,y) \mapsto x y^{-1}
}

が連続になるようなもののことです.

今日は位相群がT0であればHausdorff空間になることを示します.

補題位相群Gの任意の部分集合Aと単位元eの任意の開近傍Uに対し { \displaystyle \overline{A} \subset UA}となる.

証明:Uを{ \displaystyle U \cap U^{-1} }などと置きなおすことによって,Uが対称({ \displaystyle U = U^{-1} })であると仮定することができる.{ \displaystyle VV \subset U}なるeの対称近傍Vをとる.

もし{ \displaystyle AV \cap (AU)^{C}V \neq \emptyset }であればそこから元zが取れる.ここで

{ z = av = bw , a \in A, b \in (AU)^{C}, v,w \in V}

と表せる.すると{ \displaystyle b \in AU }となってしまい矛盾する.よって

{ \displaystyle A \subset AV \subset ((AU)^{C}V)^{C} \subset AU } であり,{ \displaystyle (AU)^{C}V}が開集合であることから{ \displaystyle \overline{A} \subset AU}が得られる.(証明終)

定理:T0な位相群GはHausdorff空間である.

証明:GがT1(1点集合が閉であることと同値)でありかつ正則であることがいえればよい.GがT1であるというには1点集合{e}が閉であることがいえればよい.

Gの元で単位元ではないものxを任意にとる.GはT0なので,

(1)eの開近傍Uでxを元に持たないものが存在するか,

(2)xの開近傍Vでeを元に持たないものが存在する.

仮に(2)が満たされたとすると{ \displaystyle e \in xV^{-1} かつ x \notin xV^{-1} }となり(1)に帰着する.単位元とは異なるGの各点xに対して(1)のようなUを対応させ,それらのユニオンを考えることで一点集合{e}の閉なることがわかる.よってGはT1空間.

任意の単位元の開近傍Uに対して{ \displaystyle \overline{V} \subset U }なる単位元の開近傍Vのとれることに注意しておく({ \displaystyle VV \subset U }なるものを取れば良い).

Gの閉集合Fとそれに属さない点xが与えられたとする.{ \displaystyle x \in F^{C}}なので e は開集合{ \displaystyle x^{-1}F^{C} }の元.

よってeのある開近傍Vが存在して{ \displaystyle \overline{V} \subset x^{-1}F^{C} }となる.

{ \displaystyle \overline{xV} = x\overline{V} \subset F^{C} }となる.

よって閉集合Fと点xは,開集合{ \displaystyle (\overline{xV})^{C}とxV }によって分離される.

以上により位相群Gは1点集合が閉な正則空間となり,Hausdorff空間である.(証明終)

なんかちょっと2つ証明打っただけなのにめっちゃつかれた.ところどころ端折ったのでたぶん読みにくいです,ごめんなさい.

1の分割

 最近,松本幸夫『多様体の基礎』を読んでいたのですがようやく楽しくなってきました.

 埋め込み定理(任意のコンパクトm次元C^r級多様体 M に対し,十分次元の高い数空間 ℝ^n へのC^r級の埋め込み g:M→ℝ が存在する(1≤r≤∞).)はステートメントは格好良いなと思いましたが,証明を読むとわりと自明でした.

 始めに考えついた人はすごいな.ホイットニーによると σコンパクトな多様体についても埋め込み定理が成り立つそうです.すごい.

 

 ところで1の分割定理は次のように述べられます:

Mをσコンパクトなm次元C^r級多様体とし,{ U(α) | α∈Λ } をMの任意の開被覆とする.このとき,C^r級関数 f(j) : M→ℝ (1≤j<∞) が存在して,以下をみたす.

(1) 0≤f(j)≤1

(2) { supp( f(j) ) |  1≤j<∞ } はMの局所有限な被覆でありかつ { U(α) | α∈Λ } の細分 

(3) Σ[ 1≤j ]f(j) ≡ 1

 

 この定理は,リーマン計量の存在など多様体における様々な存在定理の基礎となるそうです.

 『多様体の基礎』では様々な補題をつかって証明しています.

 σコンパクト多様体の性質,(俗にいう)基本的な関数の存在をポイントとして,証明がなされている気がします.

 

 村上信吾『多様体』において1の分割定理はすこし違ったかたちで述べられています.

 なにが違うのかというと,多様体にパラコンパクト性が仮定されていること,存在を示された関数全体の集合の濃度が加算とは限らないことです.

 多様体はσコンパクトであればパラコンパクトなので,ざっくり言うとより強い仮定からより強い主張を導いている感じです.

 

 『多様体の基礎』を読んでいると「必要最小限の情報から主張を引き出す」ということが大切にされているのかなと感じます.

 1の分割定理において,多様体にはσコンパクト性しか仮定しませんでした.

 また,多様体をC^∞級ではなくC^r級(1≤r ≤ ∞)と仮定するのがいい例です.そのせいで煩雑になっている記述も多いみたいですが.

 個人的には,議論の本質がほとんど損なわれないのであれば,強い仮定をして証明を簡明に述べた方がいいのではないかという気持ちでいます.

 

 村上『多様体』に載っている1の分割定理の証明も読んでみて,σコンパクトだとどこまで言えるのか見極めてみたいところです.

ブログはじめてみました。

そういえば高村 光太郎『智恵子抄』を持て余しています.

詩人・陶芸家の光太郎が,妻の智恵子への賛美を綴った詩集です.

明治45年から昭和27年ごろまでの詩が載っています.

光太郎と智恵子はアトリエにたった2人籠り,創作に没頭しながら貧乏に暮らします.

しかし智恵子は心労なども重なり,昔でいうところの精神分裂病に罹りました.

けっきょく2人の生活は,智恵子の狂気という失敗に終わります.

昭和13年,彼女は南品川ゼームス坂病院にて肺結核で亡くなってしまいます.

 

ところで詩の読み方,という程でもありませんが,

どうすればより深く,正しく詩を味わうことができるのか,

ということが気になっています.

 

当たり前と言えばお終いかもしれませんが,詩は小説に比べ,

言葉のリズムや語感,字面などの情報の重要度が高いと思います.

字面というと,

どこが漢字になっているのか,どこが平仮名になっているのか,

どんな漢字が使われていて,そこからどんな情景や心情が伝わるのか,

とかいうことです.

だから詩は黙読していても,心の中で音読するようにしています.

 

けれどこの頃,歴史の流れを掴まないと,致命的なまで受け取る情報量が下がるのだなあと,

ちょっとだけ実感しました(アホなので).

そのきっかけになったのが,この詩です(高村光太郎と智恵子 より引用).

 

案内

三畳あれば寝られますね。
これが小屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のように美味。
あの畑が三畝(うね)、
今はキャベツの全盛です。
ここの疎林(そりん)がヤツカの並木で、
小屋のまわりは栗と松。
坂を登るとここが見晴らし、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、
右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでいる突き当りの辺が
金華山(きんかざん)沖ということでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
後ろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん こういうところ好きでせう。

 

智恵子抄』に載っているこの詩は,昭和25年に書かれました.智恵子の死から10年とすこし後です.

その間,光太郎は戦争賛美の詩を書いてしまいました.

戦後,知識人たちが開き直って自身の創作をするなか,

光太郎は自らを恥じ,岩手県花巻市の山間にて謹慎生活を始めます.

この詩はそのときの作品です.

東京には空が無い,と言った智恵子を思い浮かべながら,

自身の住処を案内するきもちで書いたのでしょうか.

 

詩というのは私にはよくわかりません.

『案内』なんて地味なタイトルの詩,半分寝ながら文庫本をひらく私が,

まじめに読むはずないのです.

上記のような背景をすこしでも知っていれば,

すこしはわかること(わかった気になること)も増えるでしょう.

 

そういえば智恵子がどんな人物であったか,とても興味をもっています.

絵は残っているようですが,文人ではなかったため著作なんか無さそうです.

本人の書いたものが読みたいのに.

また,当時の日本の精神科医療にはどの程度のことができたのか,或はできなかったのか.

そのへんも個人的には気になるところです.

 

とり留めないですがこの辺で.